占領下奇譚 · 第四話「無人列車」

昭和二十四年七月末、神田

「最近、顔色がどんどん悪くなる」

幸子は神崎の顔を見てそう言った。

七月の終わりに近い夜、玉菊に寄ると、幸子はいつもより早く徳利を出した。「顔を見れば分かる」と続けた。「眠れてないでしょ」

「少し」

「少しって、何時間」

「……三時間か、四時間」

「それは、眠れてないって言う」

幸子はカストリを注ぎながら、神崎の左手の薬指を一瞬見た。欠けた指先。それから視線を戻した。

*  *  *

「松川の話、聞いた?」

幸子が言ったのは、神崎が二杯目を飲んでいるときだった。

「松川」

「福島の方。線路の事故だって。列車が脱線して、乗務員が死んだって聞いた。こっちとは別の話だけど——また国鉄の話でしょ」

神崎は杯を置いた。

(また福島、か)

「いつの話ですか」

「今月の半ば頃だって」

十七日。神崎は数字を頭の中で確かめた。三鷹の二日後。

「で、なんか——名前の挙がってる人の中に、丹羽なんとかって人がいるって話を聞いたんだけど」

神崎の指が、杯の縁でわずかに止まった。

「なんか知ってる人ですか?」

幸子が聞いた。

「……いや」

神崎は答えた。

短すぎる答えだと、幸子には分かるだろうと思った。幸子は神崎の嘘をすぐに見抜く。しかし今夜は、それ以上のことを言えなかった。言葉を続ければ、その先に何が来るかを、神崎自身が恐れていた。

*  *  *

幸子は何も言わなかった。

徳利を持ち上げ、また注いだ。それだけだった。

カストリの臭いが立った。神崎はそれを飲んだ。舌が痺れた。

三鷹。松川。江川。丹羽。三浦。

名前が夏の夜に重なっていった。一人の人間では、どう引いても繋がらない点の数が、今この国の上に散らばっていた。

(八月が来る)

神崎は感じた。

まだ七月だった。しかし八月の気配が、すでにそこにあった。昭和二十四年の夏は、まだ終わっていない。

八月十七日。

その日付が、神崎の頭の中で根拠もなく浮かんだ。どこかで聞いた数字か、それとも自分が作った予感か、区別がつかなかった。

(また、誰かが捕まる)

(また、誰かが問題ないと言う)

幸子がラジオをつけた。

夏の流行り歌が流れ始めた。陽気な節だった。焼け跡の東京には似合いすぎる、陽気な節だった。

神崎は杯を両手で持ち、歌を聴いた。

外では、昭和二十四年の夏が、まだ続いていた。

― 第四話・了 ―
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