昭和二十三年一月二十六日、夕刻。
豊島区椎名町の裏路地に、焦げ茶色の国民服を着た男が立っていた。
名を神崎修二という。三十三歳。やせた頬に煙草の煙を纏わせながら、人だかりの方角をじっと見ていた。ゴールデンバットの安い臭いが、夕暮れの焼け跡の匂いに溶けた。
東京の冬は遠慮がない。焼け跡にバラックが肩を寄せ合うこの街にも、夕闇は早く落ちる。カーバイトのランプが赤々と灯り始めた闇市の端で、帝国銀行椎名町支店の前に警官と野次馬が群れていた。
「毒だ」と誰かが言った。「みんな、毒を飲まされたんだ」
神崎は煙草を指に挟んだまま、動かなかった。
その朝、彼はこの街とは別の用件で池袋に来ていた。GHQ民間諜報部——CICと人は呼ぶ——の連絡将校、杉田の指示だった。内容は単純に聞こえた。ある男の行動を確認し、報告する。ただそれだけのはずだった。
しかし「毒」という言葉が、神崎の胸の底に沈んでいたものを揺すった。
(あの化合物の名前が、浮かんだ)
三年前、昭和二十年の夏が終わった日から、神崎は多くのことを忘れようとしてきた。満州で過ごした四年間、中野学校で叩き込まれた諜報の技術、そして終戦の混乱の中で彼が「処理」しなければならなかった幾つかの案件を。しかし忘れられないものがある。ある特殊な毒物の、独特の臭い。青酸の匂いは、杏に似ている。
野次馬の中に白衣の男はいなかった。すでに逃走した後だという。
神崎はゆっくりと歩み寄り、捜査を仕切る警官の言葉の端をひろった。白衣。腕章。「厚生省の技官」と名乗り「GHQの命令で消毒薬を配布する」と言った男が、十六人の行員に何かを飲ませた。名刺を使った。
名刺。
神崎の目が、わずかに細くなった。
彼が今日この街に来た理由は、一枚の名刺にあった。正確には、名刺に刷られていた名前に。朝倉哲也。旧陸軍軍医中佐。神崎が何ヶ月もかけて追っていた人物の、偽名の一つ。
まさか、とは思った。しかし「まさか」が現実になるのが、この焼け跡の東京というものだった。
神田神保町の木賃アパートに戻ったのは、夜の九時を過ぎていた。
三畳の部屋に電灯は一つ。窓の外を都電が軋みながら通り過ぎ、その振動で薄い壁が震えた。神崎は卓袱台の前に胡座をかき、煙草を一本立て続けに吸いながら、手元のメモを眺めた。
被害者十六名。そのうち十二名が死亡。毒物は青酸系と思われる。犯人は白衣に都の防疫腕章。GHQの権威を騙る。
(GHQの権威を——騙る)
神崎は煙草の煙を細く吐いた。
騙るとは限らない、と彼は思った。GHQの名を使うのが一番手っ取り早いと知っている者が、この国に何人いるか。それが本当にGHQの人間の差し金であったとしても、日本の警察が調べられる限度は決まっている。プレスコードがある。占領軍批判と受け取られかねない記事は、翌朝には消える。
問題は毒物だった。
神崎が追っていたのは、旧陸軍第七三一部隊——関東軍防疫給水部——から戦後の混乱の中で消えた研究資材の行方だった。CICからの指令ではなく、神崎が独自に気になって追い続けていた糸だった。青酸系の化合物がその中に含まれていたことは、彼が満州時代に得た知識として知っていた。
朝倉哲也。軍医中佐。復員後の消息不明。
昨日まで彼は、朝倉が旧資材の横流しをヤミ屋と組んでやっていると踏んでいた。それが今日、帝国銀行の椎名町支店で十六人が毒を飲まされた。
二つの点が線で繋がるかどうか、まだ断言はできない。しかし神崎の皮膚が、ざわりと粟立っていた。中野学校で鍛えられた、その感覚だけは、七年経っても鈍らなかった。
古い時計が十時を打った。
薄い壁の向こうから、隣の部屋の男が地声で鼻唄を歌う声が漏れてきた。引揚者らしいその男は毎晩カストリを飲んで、外地での昔話を独り言のように呟いた。神崎は耳を塞ぐこともなく、その声をただ聞いていた。
自分もあの男と大して変わらない、と神崎は思うことがある。外地で何かを置いてきて、焼け跡の東京でそれを取り戻せないまま、ただ日を送っている。
違うのは——自分がまだ、誰かに使われているということだ。
翌朝、神崎は新聞を買った。
帝国銀行の事件は、夕刊に小さく載っていた。驚くほど小さかった。十二人が死んだというのに、紙面の端に追いやられている。神崎には理由が分かった。GHQを騙った犯人の話が出れば、プレスコードに引っかかる。書きたくても書けない記者が、今頃デスクと押し問答をしているはずだった。
新聞を畳みながら、神崎は立ち上がった。
今日は杉田に会わなければならない。池袋での任務の報告をしに。しかし神崎の頭の中には、朝倉哲也の名前と、杏に似た毒の臭いが、昨晩からずっと居座っていた。
杉田に話すかどうか、まだ決めていなかった。
CICに話せば、話は大きくなる。大きくなった話が、自分の思わぬ方向に転がることを、神崎はこれまでの経験で知っていた。真実というものは、権力の手に渡った瞬間に、別の形に変えられる。それがこの国の、戦前も戦後も変わらぬ摂理だった。
路地を出ると、師走から続く寒さが頬を打った。
都電の走る大通りに出ると、アメさんのジープが一台、ゆっくりと通り過ぎた。助手席の将校が、道端のパンパンの女に目を向けた。女は進駐軍の払い下げらしい赤いコートを羽織っていた。その赤が、灰色の街によく映えた。
神崎は煙草に火をつけながら歩いた。
この街で赤いものは、二種類しかない。アメリカから流れてきたものと、誰かの血だ。
有楽町の喫茶店「コロナ」は、GHQの将校たちがよく使う店だった。
日本人には少し気後れのする値段の珈琲が出て、窓際の席から帝都の焼け跡が遠くまで見渡せた。杉田隆は決まってその窓際に座っていた。
「神崎さん」
杉田は日本語で言った。両親が戦前に渡米した日系二世のこの男は、日本語と英語を同じ速さで話した。年は三十前後、濃い眉と細い目が、どこか神崎に旧陸軍の先輩を思わせた。違うのは、杉田が着ているのが進駐軍の制服だということだ。
「帝銀の件」と神崎は座りながら言った。「聞いていますか」
「聞いてるよ」
杉田はカップを置き、窓の外を見た。「椎名町支店。白衣の男。GHQの名を使った」
「GHQは動きますか」
「うちは動かない」杉田はあっさり言った。「日本の警察の案件だ」
神崎は黙って珈琲を一口飲んだ。苦かった。配給外のこの珈琲は、どこから来るのかと考えるのをやめてから久しかった。
「あの毒物の出所が、気になっています」
「気になる?」
「旧陸軍の研究資材が、終戦後に行方不明になっているものがあります」
杉田は神崎を見た。その目に、何か読み取れないものが光った。「それは、CICも把握している話だ」
「では——」
「だから動かない」杉田は静かに言葉を区切った。「神崎さん。あなたには、今日話した池袋の件の報告書を書いてもらえばいい。それだけでいい」
窓の外を都電が走り、店の棚のカップが微かに揺れた。
神崎は杉田の目を見た。杉田は視線を外さなかった。
(CICは、知っている)
それだけ分かれば、今日は十分だった。
神崎は珈琲を飲み干し、立ち上がった。コートの襟を立て、帽子を被り直した。
「報告書は明日お届けします」
「ありがとう」杉田は微笑んだ。その笑顔に、温度はなかった。