翌朝、神崎は報告書を書いた。
池袋での任務——対象人物の行動確認——は、不首尾に終わっていた。午後三時に帝銀の騒ぎが起き、野次馬の人波に紛れて対象を見失った。そう書いた。嘘ではない。ただ、全部ではなかった。
朝倉哲也の名刺については、書かなかった。
有楽町のCIC事務所に報告書を届けた後、神崎は神田古書店街を歩いた。習慣だった。考えるとき、彼はいつも本の背表紙を眺めながら歩く。本を買うわけではない。並んだ活字を眺めていると、頭の中が整理されてゆく気がするのだ。
(杉田は、朝倉を知っているか)
知っているはずだ。CICが731部隼の資材流出を把握しているなら、関係者のリストも持っているはずだった。では、なぜ彼は「動かない」と言ったのか。
動けないのか、動かないのか。
その差が、すべてを決める。
薄い陽射しの中、神崎は一冊の文庫本を手に取った。漱石の「こころ」だった。戦争中も、焼け跡の東京でも、漱石だけは残っていた。神崎はそれを棚に戻し、歩きだした。
帝銀事件の捜査は、その後も奇妙な経過を辿った。
神崎が闇市や酒場から拾う情報は、断片的だが一致していた——警視庁は早々に「犯人は旧陸軍の毒物研究に関わった人物」という線で動き出している。しかし捜査の進展は、報じられない。プレスコードの問題だけではなく、捜査本部の内部でも「この線は追うな」という圧力がかかっているという話が、ある警官の飲み語りから漏れてきた。
二月になった。
東京の寒さが底を打つ頃、神崎のアパートに一通の封書が届いた。差出人の名前はなかった。
中に入っていたのは、一枚の名刺だった。
〈朝倉哲也 厚生省防疫課技官〉
表面だけを見れば、帝銀事件の犯人が使ったものと同じ体裁だった。しかし神崎がそれを裏返すと、鉛筆で小さな文字が書いてあった。
〈知っていますね〉
それだけだった。
神崎は名刺を机の上に置き、ゴールデンバットに火をつけた。煙を一口吸い、天井を見た。
(知っている、とは何を)
問いかけは三つあった。
帝銀事件の毒物の出所を、知っているか。朝倉哲也という男の本当の素性を、知っているか。そして——なぜCICがこの件に手を出さないかを、知っているか。
三つとも、神崎はある程度知っていた。あるいは、知りかけていた。
名刺を送りつけてきた人物は、それを確かめたかったのか。あるいは、神崎に「知っていることを知っている」と告げたかったのか。
煙草が半分になる前に、神崎は立ち上がった。
玉菊に行かなければならなかった。
神田の裏路地にある「玉菊」は、表向きは居酒屋だった。
暖簾をくぐると、板張りの土間に四つの卓袱台が並んでいた。壁に張り付いたヤニで黄ばんだ染み付きの壁紙に、誰かが破れた軍用地図を貼って塞いだ箇所があった。夜になると近所の職人や引揚者、小役人が来てカストリを飲んだ。昼間は来栖幸子が一人で店番をしていた。
「名刺の件」と神崎は言いながら腰を下ろした。
幸子はお茶を出しながら答えた。「昨日から警察も来てないよ」
「警察に話したんですか」
「話してない」幸子はあっさり言った。「あんたに話した」
神崎は彼女を見た。幸子は四十前後、細面に切れ長の目をした女だった。戦前に女優をやっていたという話は、その顔を見ればなんとなく信じられた。何を考えているか読ませない目をしていた。
「その男——帝銀の犯人が使った名前に似た名の男が、以前ここに来たと言いましたね」
「ええ」
「どんな人物でしたか」
幸子はしばらく考える様子を見せた。それが本当に考えているのか、見せているだけなのか、神崎には判断がつかなかった。
「五十過ぎ。やせて、眼鏡をかけてた。声が低くて、あまり喋らなかった。一人で来て、日本酒を二合飲んで、帰った」
「いつ頃ですか」
「去年の夏ごろだったと思う」
昭和二十二年の夏。終戦から二年。神崎が本格的に朝倉の追跡を始める、少し前だった。
「その客は、何か話しましたか」
「一つだけ」幸子はお茶を自分の分も注いだ。「あなたの名前を、言った」
神崎は動かなかった。
「神崎という男がそのうちここに来る、と言った。もし来たら、よろしく伝えてくれ、と」
「それだけを?」
「それだけを」
部屋が静かになった。ラジオは切れていた。路地の外を荷車が通る音が、遠くに聞こえた。
(朝倉は、最初から自分を知っていた)
神崎は煙草を取り出したが、火をつけなかった。
朝倉哲也が神崎の名前を知っているとすれば、一つしか考えられない経路があった。満州時代、神崎が接触した旧731部隼の関係者——その中の誰かが、神崎の素性を朝倉に伝えた。
となると問いは変わる。
朝倉は神崎を恐れているのか、それとも利用しようとしているのか。
「その客が来たとき」神崎はゆっくり訊いた。「他に客はいましたか」
「いたよ」
「どんな」
「若い男が一人。片隅で飲んでた。今思えば——ずっと、その眼鏡の客の方を見てたかもしれない」
神崎の指が、煙草の端をかすかに握った。
(尾行されていた。あるいは、護衛されていた)
どちらかは分からない。しかし朝倉という男が、単独で動いていないことは確かだった。
「その若い男の顔、覚えていますか」
「大体は」幸子は静かに言った。「あたしは一度見た顔は忘れないよ。商売柄ね」
神崎はようやく煙草に火をつけた。
「もし、その男がまたこの店に現れたら——教えてもらえますか」
幸子は少し笑った。答えの代わりに、お茶のおかわりを注いだ。
三月になった。
帝銀事件の捜査は、予想通り迷走した。旧陸軍の毒物研究者という線は、いつの間にか捜査の表から消えた。代わりに、画家という職業の一人の老人が容疑者として浮上した。
神崎はそのニュースを聞いたとき、煙草を途中で火を消した。
(画家)
毒物の扱いに精通した軍人でも、医師でもなく——画家。
あまりにも、遠かった。それが意図的なものであることは、神崎には分かった。捜査を「正しい方向から遠ざける」ために、誰かが動いた。
その誰かが誰であるかも、もう想像がついていた。
問題は、それを確かめたところで、神崎には何もできないということだった。
(知っていますね)
封書の文字が、また頭の中を通り過ぎた。
知っている。そして——だから何だ、という問いだけが残った。
神崎は新しい煙草に火をつけた。窓の外では、三月の冷たい雨が、東京の焼け跡に静かに降り始めていた。
帝銀椎名町支店の事件から、五十日が過ぎていた。