占領下奇譚 · 第二話「赤い春」

昭和二十四年三月、有楽町

昭和二十四年三月、有楽町。

「コロナ」の窓の外は、春雨だった。

白みがかった霧雨が帝都の焼け跡を濡らし、GHQの将校たちが乗るジープが水たまりを踏んで走り去っていく。神崎修二は窓際の席で珈琲を手に持ったまま、その光景をただ眺めた。

ゴールデンバットの煙が、白い雨の向こうに溶けた。

杉田隆は向かいに座っていた。今日は制服ではなく、濃紺のスーツだった。笑顔で入ってきたが、その笑顔に温度がないことを神崎は知っていた。初めて会ったときから、ずっとそうだった。

「ドッジライン、ご存知ですよね」

杉田は日本語で切り出した。GHQ経済顧問ドッジが先週来日し、均衡予算と経済安定の名の下に、この国の財政に大鉈を振るうという話は、新聞を読む者なら誰でも知っていた。

「国鉄を含む公共企業体に、大幅な人員整理が来る」

神崎は珈琲を一口飲んだ。

「どのくらいの規模ですか」

「九万五千人」

杉田は事もなげに言った。九万五千という数字を、まるで在庫の話でもするように。

窓の外で雨が少し強くなった。

「労組は激化する。すでに東北の地区から動きが出ている。特に福島」杉田はスーツの内ポケットから薄い封筒を取り出し、卓袱台の上に置いた。「国鉄福島地区の労働組合に、活発な幹部がいる。丹羽庄司、二十九歳。共産党員。穏健派とも急進派とも繋がっている」

神崎は封筒を見たが、手を伸ばさなかった。

「私に、何をしてほしいんですか」

「潜入して、人間関係を把握してほしい」杉田は言った。「誰が中心にいるか。誰が過激化しているか。いわゆる——赤のリストだ」

*  *  *

沈黙が落ちた。

珈琲の湯気が、二人の間で静かに揺れていた。

神崎は封筒を手に取り、中を確認した。偽の身分証明書。工場労働者として戦後を生き延びた、という設定の経歴書。いくつかの名前とその住所。それから現金。

(金が要る)

それは事実だった。神保町のアパートの家賃が三ヶ月滞っていた。それだけでなく、神崎が独自に動いている幾つかの「糸」を追い続けるにも、金はかかった。断ることができない理由は、そこにあった。

「組合員を売る、ということですか」

「リストを作るだけだ。実際に何かするのは、うちではない」

「では誰が」

杉田は微笑んだ。「それは上の話だ」

(上の話)

この男が「上」と言うとき、それはGHQの——さらにその上のどこかを指していることを、神崎は知っていた。G2、あるいはもっと別の何か。名前のない力が、この占領下の東京を動かしていた。

「いつまでに」

「五月中に最初の報告が欲しい。人員整理の発表が六月になる前に」

神崎は封筒を上着の内ポケットに入れた。

「分かりました」

*  *  *

有楽町から神保町まで歩いて戻った。

雨はまだ降っていた。傘はない。コートの肩が黒く濡れた。神崎は別に気にしなかった。濡れることより、頭の中に住み着いた数字の方が重かった。九万五千人。

その人数が職を失う。家族を含めれば何十万か。そのうちのどれだけが、神崎が書くリストによって処分を受けることになるか。

(分からない)

分からない、で片付けようとした。任務はこれまでにも幾度かあった。中野学校で叩き込まれた思考法の一つは、「手段と結果を切り離せ」だった。しかし神崎には、七年経っても、その切り離しが完全にはできなかった。

左手の薬指の先が、ない。

戦争の末期、満州で失った。その欠けた先を、神崎は雨の中で見つめた。

(まあ、そういうことだ)

神保町のアパートに着いたとき、隣室から引揚者の男の鼻唄が聞こえた。いつもの鼻唄だった。今日はそれが、やけに遠く聞こえた。

― 続く ―
Next 二章「北へ」——四月、神崎は福島へ向かう。国鉄労組の集会に潜り込み、丹羽庄司の後ろ姿を初めて目にする。