七月も半ばに差し掛かった頃、神崎は玉菊に寄った。
暖簾をくぐると、来栖幸子はすぐに振り返った。
「また煙草臭い」
「暑いので、多く吸います」
「理由が意味わからない」
幸子はカストリの徳利と小皿を出した。小上がりに上がった神崎は、壁に背をあずけた。天井の染みが、前に来たときより増えていた気がした。雨漏りだろうか。それとも増えたのではなく、神崎の目が鋭くなっただけか。
「顔色が悪い」
「眠れていません」
「珍しい。あなた、いつも石みたいに眠るじゃない」
「今月は夢を見ます」
幸子は何も言わなかった。
カストリを一杯飲んだ頃、幸子が口を開いた。
「三鷹の方で、変なことがあったって聞いた」
神崎は杯を持ったまま、動かなかった。
「電車が、夜中に無人で走ったって。人が死んだって」
「いつの話ですか」
「今週」
幸子は徳利を傾け、神崎の杯を満たした。「国鉄の電車なんでしょ。この間の総裁の件があったし——なんか、国鉄がおかしなことになってるって話があちこちで出てる」
神崎は杯を傾けた。カストリの臭いが鼻を抜けた。
(また、始まった)
そう思った。始まったというよりも——続いている。江川の線路から、三鷹の線路へ。夏の東京の上を、見えない力が走っている。線路の上を、無人の車両が走るように。
「死んだのは、何人ですか」
「六人だって」
神崎は何も言わなかった。
「なんか、知ってる?」
幸子は聞いた。探るような口調ではなかった。ただ、神崎の顔を見ながら。
「……いいえ」
神崎は答えた。
杯を置き、徳利を手に取り、自分で酒を注いだ。幸子はその手元を見ていた。欠けた左手の薬指の先が、白い徳利に触れた。
「夢を見るってどんな夢」
幸子が聞いた。
「……線路の夢です」
神崎は答えた。それ以上は言わなかった。
幸子も、それ以上は聞かなかった。
玉菊を出たのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
神保町への道を歩きながら、神崎は煙草に火をつけた。七月の夜の生暖かい空気が、煙を素早く溶かした。
三鷹。国鉄。無人の電車。六人の死。
(誰かが、捕まる)
そうなる。そういう流れだ。江川の件も、誰かが「犯人」に仕立てられることで終わりの形を作る。あるいはすでに仕立てられている。
福島の組合員の顔が、ふと浮かんだ。
丹羽庄司ではなく——もっと周縁にいた、ぼやけた顔たち。神崎がリストに記録した名前たち。あの記録が、今この夏にどう使われているか。
(分からないままだ)
都電が通り過ぎた。その軋む音が、夜の路地に長く残った。